ゆるくかしこくまったりと

ゆるく、賢く、まったりと日記を書いてます。LoLしてます。ポケモンやってた時期もありました。

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普通の事

 久しぶりに書きます。私です。基本的にブログに考えをまとめるときは沈んでる時なんですが、最近そこそこに元気になってきたのであんまりブログに書くことがない。いや、書くことはあるんですけど元気があるときは他の事するので。それでなんで元気なのに記事書きに来たのかというと、昔考えてたことを全く思い出せない自分に気づいたからですね。数日前に考えてたことも思い出せなくなってます。歳ですかね。まだ若いんですけど。ちなみに最近脂身とか食べるのきつくなってきました。湯豆腐おいしいですね。
 それはともかく。今日は普通の事について。
 普通の事っていうのは、目上の人に会ったら敬語で話すとか人に会ったら挨拶するとか。はたまたテストが近づいてきたら勉強するとかとかとか。それが世間で当たり前とされてることです。ここでポイントなのは発言者がしている、もしくはすべきだと思ってることです。
 この普通の事というのは実際のところ人によって結構まちまちです。夜に寝て朝起きることを普通の事だと思ってる人は大勢いますが、夜更かししがちな人はそれを普通の事と思わない。まあいろんな普通の事があるわけです。
 基本的には学校で教えられているようなことは普通の事として皆にズレなくしみわたっています。いじめするなとか宿題を出すとか。
 ここで疑問に思うのですが普通の事、すなわちして当たり前なことをすべてしている人はいるのでしょうか。
 例えばですが日本に住む70%以上の人が普通の事だと思っている行動を完璧にしている人がいます。目上の人には敬語を使うし、人に優しくし、朝にきちんと起きて仕事に行くetc etc……。
 この人を一言で言うなら善人でしょう。ではここで日本に住む50%の人、30%の人と減らしていったとします。それを完璧にこなしている人は何と呼ぶべきでしょうか。
 人に優しく、他人に寛容で、老若男女に優しく、努力を惜しまない。こんな人間は聖人と呼ぶにふさわしい。
 面白いのがここでやっているのは皆が思っている普通の事ということです。普通の事をこなすと聖人になるんです。面白いですよね。
 結局言いたいのは皆が言う普通の事を完ぺきにこなし続けるのはとても難しいということです。すべての普通の事というには裏で多かれ少なかれ努力や手間があり、それを無数に積み重なっていった場合とてつもない努力が必要なものになるということですね。
 ちょっと雑ですが作業が残ってるので終わります。
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| 備忘録 | 04:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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何故考えるのか

 やはりというべきか休みになると何もしないので結果思考が増えて、でも誰かに吐き散らかす相手もいないのでブログにでも。
 このブログ本当に備忘録というか楽しい記事とか一切書かないのであれですね。自分から何かをやる意欲を失って久しいので必然的に書き記すことが自分のことだけになってしまうんですよね。まあ別に誰のためという訳でもなく自分のためなのでしょうがないですね。誰かに説明した気になって承認欲求を満たすのです。
 今日は何故思考するのかについて考えていました。ここでの思考っていうのは私個人の話しですよ。人類全体が何故思考するのかなんて壮大な話ではないです。
 言ってしまえばですがこんな余計な事考えてるくらいなら、なんも考えないで過ごしていたほうがよっぽど幸せに決まっています。私だってそう思いますよ。でも思考はやめられません。別に楽しいと感じているわけでもないのですが、必要だからやっているという感じ。もう習慣化して当たり前になってしまっているので、意識して止めないといけません。フワッとしか考えていなかったこの思考の意味についてきちんと再定義しようかなと思ったのが今回のきっかけなわけです。
 私はこうブログに書いてるようなことを何もしていないときはずっと考えています。それはもう無数にいろんなこと考えていて、もはやぱっと思い出すことはできません。そのおかげで多少は世の中見れるようになったかなと思ってますが、正直自分としてはまだまだ足りないと感じてます。それはともかく。たくさん考えたそれはその思考が必要になった時に出てくるわけですが、まあ自分の血肉になっているわけです。考えなのに血肉なんて言い方はちょっとおかしいですけどまあいいです。それはちょっともったいないと思ってブログの記事にしてたりもするんですけどそれもまたどうでもいい話ですね。
 話が逸れました。何故私が思考をする、というか習慣にしたのかですね。思い出すに中学生の頃ですかね。あの頃はまだまだ若く、感情のコントロールも知らなかったもんで、根暗ボーイだった私はどうにも人と話すのが苦手で仕方ありませんでした。人とうまく話すすべも知らなかったし、知らないやつに絡み散らかしてくるウザボーイたちにも耐性がなかったのです。ウザボーイに絡まれるとああああああっとなってましたね。いじられ耐性も0ですね。とにかく繊細なボーイでした。だれも見てないでしょうがこれだけは書いておきます。陰キャラみたいなのに適当に声かけて弄って野郎みたいな試みは絶対にやめてください。犯罪です。
 嫌な奴に絡まれてはすごい嫌な気分になるし、人と話すのも焦っちゃってうまくいかないというのがワテクシ少年の感じてたことです。確か。正直過去のことはすぐ忘れるので怪しいですがこれは間違いなくそうだったはずです。
 で過去のワテクシはどうしたかというと、夜になって布団に入った後、自分の会話内容なんかを見つめ直しだしました。それは会話だけでなく行動もです。あの時こういう対応すればよかったなーとか。この時どうすればよかったんだろうとか。足りないモノを補うために始めました。そのうち夜の寝る前一時間くらいは思考の時間になりました。地下鉄の電車ってどうやって地下に入るのかなんか考えてましたね。今思えばとんちんかんなことばかり考えていた気がします。疲れてたいた時以外は毎日思考を続けていたはずです。そのうち昼間でも暇なときに考えるようになり、この思考習慣がついたわけです。
 この源泉を辿って分かったことは、結局私の思考習慣はどうすれば自分がうまく生きれるかという問題に対しての答えだったということです。周りに相談できるような人はいなかったですしね。面倒を見てくれるというのと話を聞いて一緒に考えてくれるというのは違うことです。今ならそれをはっきり理解できますが、あの頃の繊細ボーイな私もうっすら理解はしてたようですね。
 ここで勘違いしてはならないのが社会に適合させるための思考ではなく、自分がうまく生きるためにやっているものということです。だからこの世界つまらんしにたいと考えるより、なんとか楽しい事考えましょうとここ最近は思考を転換しました。思考の勝利です。自分をよくしようとする作用で死にたくなってたらあんまりにも馬鹿らしい。死ねば別世界があって超楽しい事が待ち受けてるなら別なんですけど、そんな都合のいいことはないです。
 他にもこの世界での自己正当化のために客観視点から見る必要があったため、思考してたというのもあります。
 私には理解者がいないので私は私を絶対に否定しませんが、私が正しくなかった場合社会は私を否定します。それを回避するためにも必要だったのでしょう。一応書いておきますが私は私を否定しないと言っても反省もするし、悪かった点を治そうともしますが後悔はしないということ。過去を考えても仕方がなく、未来だけを見つめて生きてますってことです。ちなみにこれもここ数か月で気づいたことですね。
 まあこんなもんですね。思考する理由。なんでも幼いころに結び付けられるので割とフロイト信者なとこあります。今日はもう寝る時間なので寝ます。肉体的運動は全くしてないので眠くないのが悪いとこです。割に頭の活動は鈍ってるのであんまり筋道立てて書いてないですね。まあ備忘録なので致し方なし。では。
 

| 備忘録 | 05:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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メタ認知と思い込み

 長期休みになると何もやらないので不安になってせめてなんかやった気になろうとブログの更新に来ます。私です。
 みなさん知ってますか? こんにゃくをいったん冷凍した後に、解凍するとなんだかすじ肉のような食感になります。以上です。あ、あと大根を豚肉と一緒に醤油メインの調味料で煮込むととてもおいしいんです。これは日記です。
 今回はメタ認知に対して考えの更新があったので、記しておこうと思います。

※これも共感が全く得られなさそうな記事なので気を付けてください。

 そもそもメタ認知とはという話ですが、要するに「自分の感じていることを認知すること」です。考えていることを考えるとも言えますが若干こんがらがりますね。例えばですが自分がラーメンを食べたとしておいしいと思うとします。それをさらにラーメンを食べた私はおいしいと感じたと認知する。これがメタ認知です。小説でいう地の文みたいなもんです。
 この考え方をしていると自分自身を客観的に見れるようになるので視野が広がります。私はこの考えを知りはしなかったのですが、いつの間にか使っていました。どんな時もメタ認知、私は楽しいと思った。私はこれは嫌いだと思った。
 なぜそう思ったのかを必然的に考えることになるので客観的な視点を身に着けやすいということです。
 このメタ認知、別にいいことばかりではなく「私はこう思った」という一点で止まってしまうので、それ以上の感情発露が見られれず、発展性が見られません。簡単に言えば客観性は上がるものの主観性の産物である感情、そこから発生する想像力が失われるということです。簡単に言ってませんね。今度こそ簡単に言いましょう。妄想力が下がるってことですね。災害などが起きたとしてそのシミュレートなどには役に立ちますが、好きなキャラクターの姿からそこから喋る姿を妄想したりはしないということです。私はこのキャラクターを好きだと思った。なぜなら○○の要素と○○の要素が詰め込まれているからだ、みたいな風に終わります。
 このメタ認知の考え方ですが、必要なときに使うというのをしないで常時使用していると私のような奴になります。物事を客観的に見れているが感情の起伏が少なくつまらない人間です。頑張って感情の起伏を取り戻そうと試行錯誤していますが、それで私が面白い人間になるかはまた別の話しです。
 まあそれはそれとしてこのようなメタ認知をしていると、自分の本当の感情というのがわからなくなってきます。うれしいと感じたとあるが本当に私はうれしいと感じたのだろうか、その根拠は? となるわけですね。自分の感情を疑うなんてなんと馬鹿らしいことなのでしょうと思わなくもないですが、割と自分なんてもんはあやふやなもんですからね。数年もするとこうなります。
 しかしなのですが嫌な感情というのはメタ認知されていないのです。自然にこの思考方法に至った人間は。無意識的に悪感情だけは切り離すことが難しいからと私はにらんでいますがどうなんでしょうね。。なので、楽しい気持ちはあやふやなのに嫌な気持ちはそのままダイレクトにくる。このせいで無気力になりがちな様です。私もそうです。
 私個人として考えていたのはメタ認知というのがそもそもよくない事であり、感情のままに生きることによって楽しい事と嫌なことは相殺されるのではないかということでした。そうすれば気力が戻るのではないかと。
 しかし先日見たネット記事に悪感情もメタ認知する、という旨が書かれていてなるほどなと思いました。後天的にというのもちょっと語弊がありますが、メタ認知の考え方を外部から知った人は悪感情や仕事なんかに使うものとして最初から学びます。しかし先天的に、というか自分でその考えに至った人間は必要に駆られてやっていた(主に円滑な人間関係構築)訳であって、悪感情に使うものという認識がないものだと思います。まあ私はそうです。思い込みでした。
 まあこれでストレスに対しての耐性が多少上がったのかなぁと思います。そんな考え方を聞いただけでなんとかなるかと言われるとあれですが、知っているのと知っていないのは差があるはずです。まあ他の感情にもやってきたことですので何とかはなるでしょう。
 しかしながらこれを極めると上にある通り、本当につまらない人間になりますし、本人もつまらないんですよね。ロボットですよロボット。なので悪感情にはメタ認知、良感情は倍にして受け取るが私の今の目標となっています。感情の励起手段と倍化を探してますが、この考察が足かせになってるのではと思わなくもありません。しかしながらこのアプローチしか知らないのでしょうがないですね。
 適当に書きなぐった記事ですが多少なんかやった気になったので目的は達したでしょう。また何か書くかもしれませんが、それはそれで。今日はここまでです。

| 備忘録 | 00:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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定期的な鬱

 長い休みに入る前に必ずなる鬱なんですが、誰かに吐き散らかすわけにもいかないので文字にしとこうという記事です。自分語りで気持ちよくなる記事なので見てもなんもないです。自己メンタルヘルスです。他の記事がためになるかと言われると首を傾げざるを得ないのですけど。まあいいです、前置きはしました。
 なんで周期的に鬱になるのか自分なりに考えてみたのですが、自己承認の欲求を満たしにくく、常に自分が普通だとする像へと自己を戻そうとするため、ストレスの発散方法がなく、そのため数か月に一度、気分の沈みという形で現れるのだと思います。
 そもそも私は家庭環境のせいなのか、どうもある境から感情が抑制されだし、理性がすべてに優位を持つようになりました。ここにも理由はあるのでしょうが、精神分析も完全にはやってないのでわかりません。事実として感情は抑制されている、と私は感じているということが重要です。
 常にどんなことをしていても薄皮一枚下では平静を保っています。そのままだと人との会話に支障を来たすので、会話する人間のテンションへと合わせ、私の感情の残滓を増幅して無意識に抑制しないよう、意識しています。人と会話を長時間すると終わった後に無意識に息を吐きます。精神には負担になっているようです。
 勘違いしないでほしいのが、決してつまらないわけではないということです。譲氏とか目上の人と話すときは誰だって気を使うはずです。私は他の人と違って友達などと話すときにも勝手に精神力を使うだけです。だから無駄に疲れるのでしょう。自分の会話を大雑把にコントロールできるようになったのはここ数年のことで、それまでは夜寝る前の時間などに一日の発言の振り返りなどを行う程度で、会話中は無意識的に喋っていました。成長というべきなのでしょうが、デメリットも考えると一概にいいとも言えません。
 これは承認欲求が満たされないことにもつながっていますが、感情が抑制されているということは楽しいことが楽しいと思えないということです。今私がやっている趣味全てをやめる必要性に駆られたら、私はそのすべてをすぐにやめることができるでしょう。万物一切に大した価値は感じないし、それには自分の命なんかも含まれています。そこで問題なのは楽しいことは抑制してもストレスを負いませんが、嫌なことを抑制するとストレスが溜まるということです。鬱になる要因その2です。これも時限式に溜まっていき、それが無意識に顕在するのが休み前の気の抜けたときなのでしょう。
 まあそれはともかく私は大して物事に価値を感じていないわけですが、これが承認欲求が満たされないことにつながっていきます。例えばですが、楽しいとも思えないことをひたすらに続けて、皆に認めてもらえるほどあなたは修練できますか? 私はできませんでした。燃えるような情熱も、噎せ返るような激情も私には存在せず、唯々冷たい理性があるのみです。何をするにも精神力が使われ、それは日々暮らすだけでもどんどん消費されていきます。鬱になる要因その3です。MPが底をついたということでしょう。
 そして感情抑制されている私がストレスを解決する最後の手段としてあるのが、人に共感してもらい好意的な反応を示してもらうことです。しかし悲しいかな、私は理性で支配されていて、すべてを演じることで自己を成り立たせています。例を挙げれば私の一人称は揃えなければならないとき以外、一貫していません。私やら僕やら、俺やら自分の名前だったり。なんだってその場に合わせて変えるのです。全て見えるところで(もちろん比喩ですよ)コントロールしていないと自分が、普通に見えているかわからないからですね。酒なんかも自己をコントロールできなくなるので飲みません。なので自己独善的な自分語りはその後の影響を考えてすることができません。そもそもな話、皆当たり前にあるはずの喜怒哀楽が抑えられているこの状況に、だれが共感できるというのでしょう。鬱原因その4です。ストレスを定期的に発散する手段がない。
 ということで一か月ほど自分と問答をして、人に会わないようMP回復に専念して鬱を治すわけですが、これは戦いです。生きる理由はないですが死ぬ理由は見つかりますからね。つまんないのに生きててもしょうがないこととストレスから解放されるの二つです。なんとかして生きる理由をこじつけねばなりません。そうしてここ数年は過ごしてきました。
 一度鬱を治療するたびに精神の成長を感じはするのですが、そのたびに自分の構成成分が混じり気なしの理性へと近づいていくのを感じます。まだ20数年しか生きてないわけですが、このペースで行くと30手前には自殺している未来しか思い浮かびません。今でさえそれもいいかと思っている自分がいるので怪しいとこです。
 まあつらつら書いたんですが、結局自分の悩みを共有してくれる恋人やら友達を作るか、社会からドロップアウトできるような環境を整えてストレス自体を減らすかですね。前者は明らかに望み薄なので、後者をなんとかしようとここ数年やってはいますが、楽しくもないことにやる気は出ずどん詰まりという。根本的解決には至れなそうなので、ここで場当たり的にストレス発散している次第です。辛いですね。
 今もタスクが迫っているので何とかせねばなりません。山にでもこもりたいですね。まあMP頑張って回復しようと思います。ではさようなら。

| 備忘録 | 09:45 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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呪いの仮面

 これは書き記しておくべきだと思ったので思考まとめます。
 自分の発言を意識する人としない人。二つに分かれると思いますが、ここではその詳しい仕組みは考察しません。時間のある時に。端的に言えばウェイ系の人は自己の発言を意識しませんが、自分に自信がない人なんかは意識します。自分は後者ですが、世界からずれに怯えているのです。まあいいでしょうここは。思考のまとめなので話が飛びますが私の備忘録なので気にしないでください。もし気が向けば加筆修正します。
 自己の発言を意識する人はたまになるでしょうが、私はこんなこと言わないなと文字媒体にするとき思うことがあるでしょう。自己認識のレベルが低い人は単に違うなと思うだけですし、そもそも自己発言の意識をしない人は思考が介在しません。しかし無意識化では行われています。会話などの状況に応じて目まぐるしく発言が変わる場では、よっぽど頭の開店が早くない限りみな無意識で行うはずです。
 人は他人から認識されて初めて自己を認識するわけですから、他人からの評価=自分となるわけです。本当の心の内はともかく。作り上げたキャラクターの演じる通りに、動きを修正するのです。
 例を挙げればかわいいキャラで通ってるアイドルが政治問題に深い見識から意見を発信するのは周りから見ておかしく見えるということです。そのため本人はそれがキャラクターの既定路線ならばともかく、自己認識から外れていた場合ごくりと言葉を飲み込むわけです。そうして演じ続けるわけです。
 このわかりづらい制約を意識している人はそこまでいないのではないでしょうか。そんなの知ってると言う人は確かに多いでしょう。しかし気づいていてもさわりだけです。深くまで考えている人はほとんどいない。自分の中の像と本来の自分の乖離に気づいている人は少ない。この像は本来の自分と互いに影響しあっていますが、外からの影響は強くなると像の方に元の心が引っ張られます。言ってしまえば当たり前ですが。
 例を出しましょう。先生になるために努力する。これは本来の自分が望む像へと自分を引っ張っています。先生なのでそれに合わせるために努力する。これは外からの像に引っ張られています。これが自分が本当に望むことならばいいことです。しかし大きな出来事はともかく日常生活では深く考えている人はいないでしょう。大きな出来事だろうと深くまで考える人は少ない。
 あまり私も意識してはいませんでしたが、自覚すべきですね。本来の自分が望む像に近づけることが最善で、表の仮面はそれに合わせて形を変えるべきだと。常に意識していないと仮面に顔の形を変えられかねないということを今更ながら認識しました。言ってしまえばこの記事を手軽なSNSに乗せないで閲覧者の限られるブログに書くこと自体が、まあそういうことなんですけど。
 私のことなどほとんど何も知らないことを痛感すると同時に、それでも一つ前に進めたことを喜ばしく思います。今後も自己分析は続けていかねばならないなと改めて思いました。自分の仮面を形作る元はまた別の時にでもゆっくり考えることにします。


 ここからは関係のないとも言い切れない微妙な話ですが、ついこないだアドラー心理学について学びました。言ってもそれこそさわりだけですが。しかしどうにもアドラー心理学の目的論についてどうにも受け入れられませんでした。もともとすべてを原因で考えてきていた私にとって受け入れがたいものだったためでしょう。そもそも先にラカンを学び、フロイトの考えに影響を受けたのも一因ではあると思います。すべての意見は客観的に取り入れようと常に努力している私ですが、どうにも懐疑が常に頭によぎるものとなりました。とはいえ目的論はともかく、まださわりだけなのでもう少し考えてみる必要があります。すべては人の意思の指向性によって曲げられているものだということを意識しつつ。そう考えてこの記事の考えも屈折したレンズの一つなのかと思ったりも。まあなんにせよ今日はこれにて寝ます。

| 備忘録 | 05:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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